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とれもろすらむる

イラスト好きなとれもろすらむのブログです。

性的要素と創作キャラクターの関係について

なんとなく今まで性差というものを創作に持ち込むことを拒否していた気がするが、ここ数週間で、別に性差を作ってもよいのではないかと思えてきた。きっかけは特に思いだせない。前々からうっすら何か考えていたのだろうとは思う。

 

世の中には男女という性差があり、それらの性差はある程度連続的に繋がっているので中間のようなゾーンもあり、その身体的性差に影響される精神的な性差もある。

キャラクターを作る時に身体的な性差というのは、絶対的に必要な要素ではないが、キャラクターの表現や性的消費のために上手く利用される場合が多いものだ。

 

私は、性別も含めてそのキャラクター(人格)だということをぼんやりと考えてきた。そういえば現実世界での身体的な性別も、精神的な性別も、いっしょくたにしてしまえば、つまりその人固有の特徴に過ぎない。というようなことを、友人とその肉体的特徴、精神的特徴を合致させようとした時には思える。要素的に付随するものではない、その人としての肉体が存在している。

創作キャラクターはあらゆる消費のために生み出される場合もある。性的消費、関係消費、心地よい幻想へ導く想像力の活動。

 

自分は、自分の身体性を凌辱するような性行為描写があまり好きではない。

でも多分、あるキャラクターが犯されるところがすごく好きでグッとくるから見たい、そういう欲望も存在する。

というようなことを、今まで自分が体験した最高のコミュニケーション体験を思い返しながら思った。ある会話が、性体験が、密なコミュニケーションが、「あれは/これは最高だ」と言い切れる時に、そこには相手のキャラクターが、身体がある。そこに、自分が相手にいかなる設定をも加え、反応を想像するのか、それはまったくもって自由なことだ。

話が逸れそうだ、とにかく、身体性は、絵における人格の表現にとって重要な質量であるのではないか。それはやはり、他人として、自分人格がそこにあるように思う時に、どうしても切り離せない何か、のうちの1つなのだ。(今回は、幽霊と存在論は除く。)

 

意図して持たせたキャラクターの身体性を他人の目に曝すこと、描いた人格に他人から性的描写をブチ込まれる可能性を甘んじて受け入れること、自分が他人が生み出したキャラクターに何らかの身体性を見出すこと。それらは瞬時に両立せざるを得ない。

描くものの身体性を理解しながら描くことは、キャラクターを自らの手から手放す行為なのかもしれない。

他人になったとしても、他人の肉体をどのように愛するかという自由はまだ残されている。

 

思いつきで書いた。適当に・・・・

VRとかやっぱり気になるね。レインも好きだよ。