とれもろすらむる

イラスト好きなとれもろすらむのブログです。

チェコアニメーション : 阿佐ヶ谷ユジク

東京は阿佐ヶ谷のミニシアター阿佐ヶ谷ユジクチェコアニメーション祭り

11/28(土)〜12/11(金)

クーキー&チェコを満喫する2週間

をやってたので観てきました。初ユジクです。

自分が選んだのはプログラムGの『現代作家コウツキーとパヴラートヴァーの世界』です。(理由・・・なんとなく時間の都合が良かったからとか言えない)

当方アートアニメーション観賞は新米、情報の基本は文化庁メディア芸術祭電脳マヴォ、水江未来さんとそのツイッターくらいしか集めてません。多分アートアニメ初体験はFlash職人ぴろぴとさんだと思っています。

アートアニメーションの情報もっと集めたいす。個人でも趣味で作ってる人の作品が増えればいいなと思うんだけど。赤ずきんと健康のひとは大きくなっちゃったし・・・(嬉しいからいいんだけど)

 

 

 


どうでもいいことが長くなりましたがしじゅうこんな感じです。

以下感想や疑問など忘れそうなものを描き残しておきます。

 

 

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コウツキーとパヴラートヴァーについて

 

 

両者について1ミリの知識も持たずに観ましたが楽しめました。タイトル殆ど失念。


カフェを舞台にした2作品が印象的だったけれどもどちらの作品かよくわからない。多分パヴラートヴァーかな・・・


視覚化するのがうまい。何がうまいかっていうと、自分の世界の条理に納得させるというテクニックがうまい。(ネルノダイスキさんの展示でも条理という言葉を使ったので条理ってブーム単語なんだと思う)


アニメーションは3次元にあるものを抽象化して、どんなものにでも仮想の重量を与えられるのだと思う。仮想の質量は仮想の法則を予見させる。「もしも」にもっともらしさを与える優れた方法だとつくづく思った。

 

 

『バイオリン・コンサート』たぶんコウツキー


音楽を平面に表現する時にはたいていつかみどころがなくなりそうになる、よりどころがないような気になる。たとえば絵画だとカンディンスキー。たとえばあれをアニメーションしたらきっと美しいだろうけど、落ちどころが分からなくてずっとふわふわすると思う。あれはとても激しい一瞬を切り取ったものなのだと思う(これも題名失念、交響曲とかだったと思う)
この作品は演奏者からはじまり演奏者で終わった印象がある、様々な曲調を弾く音楽家が音楽そのものになるような感覚はとても気持ち良かった。もし変化を題材にする場合は、対比や効果を期待して、1つの軸から展開する必要があるのかなと思う。いつでも戻っていけそうな、しかし戻った時に最初とは違うもののようにみえるなにものか。

 


『カフェ』たぶんパヴラートヴァー


このGプログラム、後半でカフェを扱う作品が2作品ほどあった。
1つは実写を取り入れたもの、1つは完全にアニメーションだけで構成されたもの。
どちらが表題だったか思い出せないので両方の感想を一言ずつ。


実写入ってる方・・・・
この作者は人間好きになれるのかなと思った。嫌いだから描くというわけではないだろうけど醜さを直視してポップになる感じ。勘ぐりすぎ。もっとドライに生きたい。でもドライに生きたいということはきっとドライに生きていないということなのだと思う。脱線した


実写入ってない方・・・・
男女のドミノやパズルが面白かった。動く新聞戯画って感じ。男女の描き分けは先の実写入りのものにもあったけどこの人はうまいと思う。実写ドラマとして男女を描かれると情報量が多すぎて(一瞬の表情とか服装や質量のある風景とか)顔色伺いマンの私には辛いのだけど、アニメーションだと表現者の意思が伝わるので、情報量の多さに逃げる隙がなくて、製作者は大変だろうと思う(あいまいに描くとはっきりわかるし、はっきり描けば叩かれもするだろうし)、だがおかしみという武器でもって、認めたくない現実の存在を身体に映像言語として刷り込んでくれるのは助かるなぁ。など思う。現実は情報量が多すぎると感じる時があるので。
ジャパンミニアニメーションというジャンルが海外のアニメーション祭で生まれたという話を読んだ(15年11後半~12月の水江未来さんのツイッターRTで見たところまでは覚えている)けど、表現者の意思というところでは日本の「間」なんかを意思をもって具現化し、違う文化圏の他人に伝わる形にまで昇華したというところがその名前を作るに足る功績なのかな。
それは書道や禅などの空白をも前提とした芸術にも通じるのだと思う。禅は海外から芸術としても認められるものだという適当な前提で話しました。本質は芸術ではないけど芸術的なものだと思っています私は・・・

 


『   』思い出せない。多分前作と同じ作者


観てる時はそうでもなかったけど印象に残っている。怖かったんだと思う。実写が絡んでる作品。
!!!!ネタばれ!!!!
実写でおじさんがアニメをみはじめる。よっこいしょと腰の重いおじさん。アニメを見ると笑顔になって気分が軽そう。そのアニメはトムとジェリーみたいな典型的なねことねずみのおっかけものみたいなもので、ねこが痛い目にあうやつ。そのアニメで大笑いした直後に、リアルおじさんの脇に置いてあるネズミ捕りにリアルねずみがはまってそこでこの作品は終わる。
多分典型の関係ににはまりきれないギャップがリアルにある・・・みたいな。我に返らせるみたいな演出かと思う。
このギャップがなんかダメだった(良い意味で。)デビット・リンチ作品も多分こんな感じだと思うあーリンチ無理かもと思った。リンチはブルーベルベットとあと1作品しか観てないけど半目で見てた。


まったく関係ないしどこで読んだか思い出せないけどトムとジェリーについてファンか誰かが(完全に記憶があやしい)が「ジェリーはトムが死んだあと、凶暴な他の動物かなんかに怖い目にあってわざとトムは自分を捕まえなかったのだ、自分はあいつで遊んでいたつもりで遊んでもらっていたのだ」と走馬灯のように思い返す、という話があったと思うが書いてて今思い出した気がするけどこれ2ちゃんのアニメ創作裏話みたいなやつだったかもしれない。読んでいただいたのにすまない。でもこれはそうかなリアルだなと思える。


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えーあと5作品はあったと思うけどなんか思い出せない。印象が薄いというか記憶力が悪い。思い出せたら追記するかも。
ユジクでチェコアニメのDVD売ってたので買いそうになった。1枚4千円ちょいでvol2以上は出ていた。
あーチェコアニメに浸りたくなってきたよ。面白いよアートアニメーション。
自分は仮想の世界に現実味を見出しづらい性質で、現代でも中世でもその時代のリアルを切り取るような小説をほとんど読まないのだけど、あらゆる小説はこう、アートアニメみたいに意思を持った視点から見るようなものかと思えば読めなくもなさそうだった。
あーでも不明瞭な舞台に翻弄されるからちょっとな。。幸せ目な現代社会に感情移入できないからディストピアが好きなんだよね・・・SFはまだ仮定の世界を意思持って動く感じがしていいんだよ・・・現代を舞台にした小説?現代小説はよくわからんわ・・・意思薄弱の主人公が成立するのが分からん。取って食われろ


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番外


保坂和志『遠い触覚』を(1/10くらい)読んで


面白くなくて読めなかったわけじゃなくて評論エッセイ読むの久しぶりで時間かかって図書館に反したんで読めなかったやつ。面白かった。リンチ監督のマルホランドドライブ本だろって感じで好き好き大好きしてる本。にくめないおじさんかんぱない
保坂さんがリンチのどこが好きなのかというと多分、できあがった定型を裏切られた瞬間に受ける現実の衝撃がリアルだ!ということを思い知らせてくれるからかなという予感がした。


もし作品が空想物語でも、自分が受けた影響や衝撃は現実だという感じ。
(これが分からなくて自分は本の楽しみを享受しはじめるタイミングが遅れたと思う)
(現実はすべて色眼鏡を通しているので客観的な現実は自己に存在せず現実そのものこそ空想に近い説もあるけど~面白いけどやっぱり衝撃はリアルだと思う。)


あんま関係ないけど写真家の星野道夫は「感動を伝えるには、自分が変わることだ」(超意訳)と言っていたね。感動はリアルな現実なのだと思う。

 

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あとやっぱはてなブログ、10分も書くと重くなって文字書きに支障出るからクソだな。ダイアリーはそんなことないのになんなの・・・・

 

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話がそれました。またアートアニメーションをもっとみたいとおもいました。DVD高いです。おわり!